



横浜市金沢区に在る京急富岡駅のホームから東に突兀とした丘を望む。
丘の麓には富岡八幡宮が鎮座し、『吾妻鑑』は源頼朝が参拝したと記す。
往古にはこの丘の麓辺りまで海であったが、周辺には日本銀行を創設した松方正義の別荘や作家の直木三十五の邸が在ったと伝える地だ。
そうして、鎌倉幕府の名判事として伝える青砥藤綱の邸がまた此地に在ったと言われる。
確かに、一帯は青砥藤綱が領有した地であるが、横浜市金沢区富岡に北接した磯子区杉田から金沢区へ向かって南下する国道16号が勾配を成して登る長い坂道の途上に青砥と掲げたバス停を認めることができる。
青砥バス停から北西にもまた突兀とした独立丘を仰ぎ、新杉田駅まで南へ延びたJR根岸線が西へ向かって翻転する轍路を潜らせたトンネルが刳り抜かれている。
この丘が武家にとって有事の際の詰城となり、平時には丘下の平地に居住していたものが往時の武家の姿であった。
往古に根岸線の新杉田駅辺りから根岸駅辺りまで綺麗な円弧を描いた海岸線を、フィルモア大統領の親書を携え、日本に開国の門を叩いた米海軍提督のマシュー・ペリーは"ミシシッピ・ベイ"と名付けた。
ミシシッピ・ベイのちょうど真ん中となる磯子警察署前の国道16号線上に「浜」と号したバス停を見て、そのバス停の西方となる市立小学校近辺は此地を治めた封建領主の家臣たちが集った邸街であって、小学校の奥に佇む寺院は封建領主の館址であった。
この封建領主こそ奥平氏であって、群馬県高崎市奥平を本領とした武家であった。
福沢諭吉翁の主家が奥平侯であったが(もっとも、幕末の中津藩主は伊予宇和島藩主・伊達宗城の実子を迎えたもの)、摂関政治全盛期たる11世紀上野国に接した武蔵国児玉郡を中心に上野の緑野郡・群馬郡・甘楽郡・碓氷郡から武蔵中央の比企郡・入間郡へと一族を繁衍させた武家一族は朝廷から武蔵権守に補任され、自らは権太守を唱え、威勢を誇ったことだろう。
而して、国道1号が保土ヶ谷から戸塚へ脱ける途上の長い坂道を権太坂と呼び、保土ヶ谷を脱けて横浜駅近くで東京湾に流れ込む帷子川より南の中区・磯子区・金沢区に該る久良岐郡を領した奥平一族は権太坂を西へ脱けて江ノ島の向かい側で相模湾に流れ込む柏尾川流域の相模国鎌倉郡を領した武家一族とは遠祖を姻戚とした関係に在った。
御堂関白・道長が左大臣に就いた996年、叔父・道長と争った伊周は大宰府へ左遷されたが、伊周の家令(律令職で官位は従五位下)を務めた有道惟能の母が将門の従兄となる平公雅の娘であって、平公雅こそ相模国鎌倉郡・高座郡に繁衍した武家一族の祖となる人物であった。
そして、武蔵国児玉郡に落去した有道惟能の後裔を称える武家一族の連枝として奥平氏が在ったが、相模国鎌倉郡に接する武蔵国久良岐郡に進出した奥平氏は平子氏を称えている。
平子は"たいらく"と訓じ、磯子区内から望む中区の高爽な丘上に市立平楽中学校の名称を見届け、その丘は久良岐郡に進出した奥平氏が有事の際の詰城とした地であって、平時には磯子警察署前の浜バス停近くに居館を構えるも、有事に臨み立て籠もる丘の北側に見た往古の浜辺を横浜とした。
平子を"たいらく"と訓ずるのは平児玉の意であって、有道惟能の孫とする経行は本拠地とした武蔵・児玉郡に隣接する秩父郡を治めた平重綱の親族となる女性と婚姻し、その間に生まれた行重が上野国緑野郡・多胡郡へ進出して奥平氏の祖となった。
而して、経行・行重父子の後裔は一族内で平児玉と呼ばれ、武蔵・久良岐郡へ進出した奥平氏は一族の祖となる有道惟能の母方祖父・平公雅の後裔であった鎌倉景政の卑属となる長尾定景の陪臣となり、平児玉の意である"たいらく"と訓じながら平子の字を当てた。
斯く系譜を引く奥平>平子一族の青砥藤綱は鎌倉へ出府するに及び、金沢区に居宅を構えるも、一族との連絡を続けるべく、東京湾を船で航行し、隅田川河口近くに見る富岡八幡宮辺りで下船し、その北には船を押し上げる押上の地を見せ、更に北へは曳舟の地を見て、曳舟の地から北東に青砥の地名を見ながら、中川を挟んで高砂の地名をまた見せる。
中川は江戸幕府の代官・伊奈忠次が利根川の流路を鬼怒川へ付け替える迄、旧利根川の本流であった川で、青砥藤綱は旧利根川を遡行し、一族の待つ上野・武蔵へ向かった。
碓氷峠の東に構えた松井田城は青砥藤綱が設計したとの伝承を遺すが、藤綱が東京湾口から旧利根川を遡行する始めの地と向かい合った高砂の地名は播磨国印南郡下に見る相生の松で知られた高砂神社の社号に通じ、近傍の小松原城に構えた赤松盛忠は北条重時の被官であったと伝える。
この播磨に拠点を構えた赤松盛忠がまた奥平氏を出自とし、その後裔となる赤松則村は千種鉄で知られる播磨国西方の佐用郡を拠点とし、足利尊氏とともに京の六波羅探題攻略に協働した。
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