惟行から義季.png 前稿「あぁ、富岡」では、武家の奥平氏が摂関政治の全盛期を画した藤原道長の甥・伊周これちかに侍する律令職の家令かみを務めた有道ありち惟能これよしなる吏僚の後裔を称え、摂関政治の全盛を見る11世紀に上野国から武蔵国に亘って繁衍した武家一族の連枝であることを叙べました。
 有道惟能の息・惟行これゆきは武蔵北部の上野国と境を接する児玉郡下に在った兵部省管轄下の国営牧場を拠点として11世紀を生きたとされ、惟行の息・経行つねゆきは児玉郡に隣接する秩父郡を治めた平重綱の親族たる女性と婚姻し、その間に生まれた行重の後裔となる武家が上野国群馬郡奥平郷を本貫とした奥平氏であるとされています。
 さて、奥平氏を後裔に派した行重には行時なる兄が在ったと伝え、この行時について言及したと思われるものが『愚管抄』巻第六の一節に見られます。
 『愚管抄』巻第六にて1203年の北条時政による比企能員謀殺と二代将軍・頼家の嫡子・一幡殺害、翌年の頼家を修禅寺に幽閉し殺害した事件について叙べた下りに、「ミセヤノ大夫行時」の娘が頼家嫡子・一幡の生母を生んだ比企能員の妻であると叙べ、両年に亘った事件を叙べた下りの段の末尾に取って付けたように「ミセヤノ大夫行時」はまた児玉党の一人を婿としていたと付け加え、段落の結語としているのです。
 1203年と翌年に亘る事件を叙べた下りの段の発端は頼家が重い病気に罹り、比企能員の孫となる一幡に源氏の家督を継がせようとした為に北条時政が郎党の天野遠景とおかげらに比企能員の殺害を命じたとしていますから、段落の結語に文脈から離れて付け加えられた一文は「ミセヤノ大夫行時」の娘婿が比企能員と「児玉党の一人」の2人である事実の上に立って、「児玉党の一人」の実名を意味深長な趣で示唆しています。
 『愚管抄』巻第六が児玉党と叙べるのは奥平氏を派した有道惟能の息とする惟行を祖として11世紀に上野・武蔵に亘って繁衍した武家一族のことですが、伊豆国衙の在庁官人であったとされる北条時政の晩年の愛妾・牧の方の親族らしき牧宗親は伊豆国府を間近くする今の沼津市大岡に在った牧場の管理人を務め、当該牧場のオーナーは平頼盛であって、頼盛の母・池禅尼は源頼朝の父・義朝が敗れた平治の乱で平家に捕縛された頼朝の助命を平清盛に嘆願し、頼朝を伊豆へ配流させた女性で、その池禅尼は実に有道惟能が家令を務めた藤原伊周の弟・隆家の玄孫となる女性であり、更に池禅尼の弟となる者が北条時政晩年の愛妾・牧の方の虞らく父か兄弟であろう牧宗親でした。
 有道惟能の孫とする経行は平安時代に秩父郡を治めた平重綱の姻戚となって後裔を上野国南西部に繁衍させ、経行を祖とした武家の系譜を古文献は平児玉と冠していますが、一方で経行の兄・弘行の後裔は武蔵国北部の児玉郡から比企郡・入間郡へと拡がって、児玉党の名称で古文献に記されています。
 北条時政から比企能員の殺害を命じられた天野遠景の後裔を称えた天野信景さだかげは江戸時代の尾張藩で書物奉行を務め、『浪合なみあい記』なる書を編纂しています。
 同書は徳川将軍家の遠祖が南北朝期の上野国に在って南朝勤王党に与するも、やがて北朝幕府勢に圧され、奥平定家とともに信濃国伊那郡浪合郷の山間に逼塞し、奥平定家は三河国設楽郡作手郷へ移徒したといった内容です。
 大久保忠教ただたかの『三河物語』もまた托鉢僧姿の得川有親ありちか・親氏父子が落魄して関東から三河国賀茂郡松平郷に漂着した如き叙述を成していますが、古文献に拠ると有道惟能ー児玉惟行ー弘行の系譜にて弘行から5世とする弘季ひろすえは武蔵国児玉郡牧西もくさい郷を領地とし、息を義季よしすえと伝えています。
 徳川将軍家が遠祖と謳った得川義季は新田氏の祖・義重の息と伝えますが、上野国新田郡得川郷を領地とした得川義季はひょっとすると武蔵国児玉郡牧西郷を領地とした弘季の息と伝える義季と同一人物であったかも知れません。
 詰まり、児玉党一族たる牧西弘季の息・義季は新田氏祖・義重の猶子となった可能性を思うのです。
 と申しますのも、朝廷の吏僚の後裔を称えた児玉経行は女子を源義忠の息・経国の継室としており、経国は正室を摂関家・師実卿の息・経実の女子とし、経実はまた後白河法皇の息・二条天皇の母方祖父であって、斯かる閨閥関係からして、京から僻遠の地に在りながら児玉経行がやはり往時の上流社会において相当な地位を認められていたものであろうと思料され、児玉経行の女子を継室とした経国の父たる源義忠は河内源氏の祖・頼信ー頼義ー義家と3代続けた河内守に補任されて河内源氏の正嫡となり、それが叔父・義光に謀殺され、河内源氏の嫡流は義忠の甥であり頼朝の祖父である為義にシフトしたとはいえ、義家から河内源氏の正嫡とされた義忠の息たる経国を婿とした児玉経行の身分に対する往時の上流社会の認知度はかなり高いものであったと思われます。
 その経国は父・義忠が大叔父となる義光に謀殺されたことで河内源氏の嫡統から外され、叔父・義国に扶育されましたが、義国が下野国の足利荘に拠点を得ると、成長した経国は児玉経行の女子を継室に迎え、児玉経行が本拠とした武蔵国児玉郡阿久原郷と隣接する地に河内荘を立券しています。
 今日も猶、利根川の支流・小山川を遡った埼玉県本庄市児玉町の山間に河内の地名を遺していますが、そうした河内源氏の貴種を媒介として児玉経行と脈絡を持った源義国の息・義重が上野国新田郡を領知して新田氏の祖となる点、児玉党から猶子を迎えたことは考え得ますし、例えば新田義重の息・義範が奥平氏の本貫を間近くする今の群馬県高崎市山名を領知して山名氏の祖となったことからも、児玉本庄市牧西から世良田町徳川町.png党・牧西弘季の息・義季が新田義重の猶子として上野国新田郡得川郷を領知した義季となった可能性は有るだろうと考えられます。
 而して、この得川義季の後裔が南北朝期に奥平定家とともに南朝勤王党に与しながら北朝幕府方に圧され、ともに信濃を経て三河へ転じた可能性を雄弁にするのです。